タイの家に入りまず感じた日本との文化の違いは、宗教が身近にあるということ。
家の中に仏像がずらっと並ぶ仏間があり、家族全員が一日に一度はそこでお祈り。今日6月1日もそうですが、カレンダーに仏様マークが付いた仏教日は、お供え物が増えて特別なお祈り。
朝は近所のお寺からバイクに乗ってやってくるお坊さんに托鉢。家族のメンバーのお誕生日には、全員で行き着けのお寺でお祈りしてタンブン。
クリスチャン系の学校に通っていながら、お正月は神社でお参りをするような、典型的な日本のミックス宗教環境で育ってきた私にとって、宗教がここまで生活に入り込んでいることが、カルチャーショックでした。
先日、義理の姉が「今日は市場にタンブンに行こう」と言い出しました。
タンブンとは徳を積むこと、具体的にはお寺に寄進したり、托鉢をしたり、恵まれないものを援助することです。現世で善行を積み重ね、より良き来世を迎えることを期待する、輪廻転生を信じる仏教の教えに基づいています。
たとえば、お寺で寄付をするという行為は来世への貯金である、というような考えなんですね。
そんなタンブンの行為の中に、「動物を自然に放つ」というのがあります。我が家も、以前家を増築中に大工さんが持ってきたツガイの亀を放したことがありますが、今回の「市場でタンブン」も生き物放ち系でした。
義姉いわく「市場で買われてまさに調理されんとする生き物を救ってあげる」ことが、善行になるらしい。市場で売られている、まだ生ある物と言えば魚介類です。それらを買って、近くの川に放流するのが今回のタンブンです。
朝子供を学校に送り届けたその足で、郊外のとある有名巨大市場へ出かけました。駐車場に車を停めて、市場の中に入っていくと、狭い道路に所狭しと、野菜、果物、乾物露天がずらり。どの店も、大きい傘のような屋根があるにしても、炎天下となる午後前には売り切って店じまいをするようで、早い店は朝3時からオープンしているのだとか。
「安いよ、安いよ、もってけー」的な掛け声を交わしつつ奥に進んでいくと、少しずつ生臭くなってきました。すると、徐々に両サイドに「プラードゥック(なまず)」を売る店が増えてきた。
水揚げされたばかりのなまずが、大きなステンレスの四角い台の上でぎっしり蠢いています。中には活きが良すぎて、台から飛び跳ねて通路でうねうねしている。そこを、通行人がひっきりなしに通ってるもんですから、1人が魚を踏んづけそうになり、後ろがつっかえて私も巻き込まれ、更に後ろにいた義母が「ちょっと、ここに一匹落ちてるわよ」と店主に告げて「ちょっと取ってもらえる?」って言われたり。
これぞウェットマーケット、道路はちょっと匂いそうな水で濡れているので、ビーサンでないと歩けない。この市場は10回は行ってますが、朝の活気ある生鮮市場のエリアに入ったのは初めてでしたから、うようよしているプラードゥックや、皮を剥がれた蛙が売られた店の前なんかでは、思わず悲鳴をあげそうになりましたが、そんなことしたらひんしゅくなこと請け合いですから、ぐっとこらえて平然と歩き続けました。
更に歩くと、うなぎをバケツに入れた屋台があり、札には「放流用うなぎ」と書かれてあり、どうやら市場でタンブンは一般的なようです。しかし、義理の姉と母はその店は無視して更に突き進み、まずは貝を大量購入。そして、川に最も近い店でプラードゥックを購入。どちらもビニール袋に入れてくれるのはいいのですが、プラードゥックどんだけ活きがいいのか、しっかり封をしたビニールの中で飛び跳ねる、飛び跳ねる。なので、私はおとなしい貝の入った袋を担当。
そして、川についてボート乗り場まで降りて行き、いざタンブンスタート。宗教的儀式のひとつですし、かつて旦那と亀を放したときも静粛にお祈りしてから放ちましたが、今回は違いました。
まず義母がプラードゥックの入ったビニールの底をつかんで、どぼどぼと魚を投げ入れ、続いて義姉も貝を丸投げ。
ええーーー!!!そんなんでいいの?
と思いつつ、私も急かされるままに貝の入った袋を逆さまにしてジャラジャラと放流。
放流が済んだら、さっと踵を返して帰途につきました。
夫は出家経験があるからなのか、我が家の女性メンバーと行った放流タンブンは、激しいというか、あっさりしてるというか、本当にそんなんでご利益あるのかというあっけなさ。
いや、でもさっきまで売り台に乗ってもうすぐ誰かに買われて命が絶たれるのを待つばかりの魚や貝を、決して綺麗とは言えない川に放してやったことは、いいことだったんじゃないかと思います。また、ひとつカルチャーショックな体験でございました。